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新元号発表!!!!!

[ 2019年04月01日 ] [ 高槻 宮之川原教室 ]

れいわ。

もし、何のことかわからない人がいるなら、いますぐにニュースを見ましょう。


こんばんは。宮之川原教室の高木です。

「令和」。今日発表された、「平成」に次ぐ、新しい元号ですね。
変換で出せない、と書こうと思ったら、私の使うパソコンでは変換できてしまいました。なぜか人名地名扱いでしたが。


私自身、平成の生まれなので、改元、という時代にいるのは初めてのことです。
何かが劇的に変わる、というわけではないので、実感は薄いのですが、時代の移り変わりを、うすぼんやりと感じている今日この頃です。


さて、平成もあとひと月。
平成を振り返って…というのもありますが、せっかくなので今日はもっと昔、「歴史と元号」について振り返ってみましょう!

元号を名前にしている歴史上の出来事で、一番多いのが「戦」事です。
代表的な2つを挙げると、

「承久の乱」
「応仁の乱」

の2つでしょう。
今回は、この2つの出来事にスポットを当てていきます。

1.承久の乱

時は1221年。鎌倉幕府ができて30年前後の時期です。

この時期の鎌倉幕府は、源氏の将軍家があり、ナンバー2の「執権」職には北条氏がついていました。

しかし、この源氏の将軍家が、暗殺や後継ぎがいないなどの問題で、わずか3代で途絶えてしまいます。

トップを失った幕府側の勢力は、軽い内紛に見舞われます。
御家人出身である北条氏が、執権の座を独占しているのが気に入らない御家人も多かったのです。

そこに目を付けたのが、後鳥羽上皇はじめとする京都の貴族たち。
ほんの4・50年前くらいまでは天下を握っていたはずなのに、という思いもあったのでしょう。

ここで何と、京都の勢力は、「武力蜂起」をします。
武力をもちたくなくて警備などの仕事を武士に任せてきた貴族衆が、武器を取ったのです。


さて、このころ鎌倉。
このままでは幕府方は自滅しかありません。
ここで、あの有名な「北条政子の演説」が出てきます。
かいつまんで書くと、
「このままでは平安時代(武士の身分が低い時代)に逆戻りだ。
ここはどうか、幕府を、自分たちの権利を守るために北条に協力してほしい」
といったところでしょうか。

これによって、幕府方の団結が回復し、貴族衆の反乱を抑え、権利を守ることに成功した、
というのが大まかな筋書きです。


大事なポイントは、
1:幕府を倒すために、京都の勢力が蜂起したこと
2:幕府の勢力が弱まった時期を狙ったこと
3:幕府が勝利し、幕府の支配が決定的になったこと

です。


2.応仁の乱

「一夜むなしく」1467年。
この時代は室町時代ですね。

詳細を書く前に、少しこのときの経緯を整理しておきます。

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前の幕府である鎌倉幕府が倒れたのが1333年。
その原因として、
「子供たちに平等に領地を相続させたことで、一人分の領地が狭くなりすぎた」
ことがあります。
そこで、室町時代はその反省として、
「親は、誰か一人に土地を相続させ、生前に決めるか、遺言を残す」
というルールに変化していきました。

あ、と思った方、するどいですね。

このルールが、一族内での紛争の温床になるのです。
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では、応仁の乱はどのような戦乱なのか。

大まかには、将軍の弟(養子)Vs将軍の子、という構図ですが、
そこに管領の細川家や、畠山家、山名家などの内紛もからみ、同じ家同士で争う、という形です。

しかも、富を得る、名を成すことが目的の戦なので、何でもアリです。
戦争が進むにつれ、裏切って相手方についたり、利害が一致しなくなったり、旗色が悪くなると離反したりと、どんどん戦争は泥沼化します。

そして、両軍の大将の死をもって、停戦となるのですが、ここまで11年。

誰が勝って、得をして、というものではないのですが、この「何でもアリ」が、戦国時代の幕開けとなったのです。

 

今日の元号に関する総理の談話には、
「一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。
そうした日本でありたいとの願いを込め」た、とあります。

しかし、「安政の大獄」があった安政年間など、思惑通りにいかなかった例があるのも事実。

「令和時代」は、どのように歴史に名を残すのか。

総理はじめ、元号を決定した皆さんの願いが実現する、
そして、総理のおっしゃる通り、希望に満ちた時代になることを願います。

本日はここまで!